混迷のシリア情勢を群馬で説明してみた。
日本が島国のせいで日本人には
イマイチ大陸国のシリアやヨーロッパの状況がわかりづらい
そこで群馬で戦争が起きた体で説明してみる。
①前橋VS高崎
群馬県で前橋派と高崎派による内戦が勃発。
明治初期に県令 楫取素彦により県庁を前橋に剥奪された高崎は
江戸時代から交通の要所であり、新幹線も止まるのもかかわらず
長年、前橋の県庁から支配され不満が溜まっていた。
そこに長年、下に見てきた栃木が県別魅力度ランキングにて35位と、
45位の群馬を大きく追い越した事で高崎派の体制(前橋県庁)への怒りが爆発。
最悪の事態へと繋がった。
②代理戦争
新幹線が泊まり、首都圏の影響を大きく受ける高崎に対し
映画館すらない前橋は東京の影響を大きく受けず
代わりに知事が新潟県出身である為、新潟の影響を強く受けていた。
(実際、1960~70年代の知事は新潟出身だった)
その為、新潟は体制側の前橋派を支援を開始。
武器やコシヒカリ等を送った。
対して東京を含む首都圏同盟(神奈川、埼玉、千葉)は群馬での影響力を拡大する為に
反体制・高崎派を支援。
ここに東京VS新潟 の代理戦争体制が出来上がった。
圧倒的な資金力と物量の首都圏同盟に対し、田中角栄以後影響を弱めている新潟は徐々に追い詰められていく。
しかし東京が新たなモンスターを生み出した事で自体は混迷を深めていく。
③過激派の台頭
東京は反体制派を支援していたが、その中に
「群馬が一番輝いてた頃は明治時代だ!世界で強かった養蚕業を復活させるんだ!」
という過激派が含まれていた。
そしてその過激派は「グンマー国」を名乗り、勢力を拡大。
県庁前橋もグンマー国の前に陥落。
広域に影響が及び始めた。
グンマー国は
「我が国では労働時間は1日8時間厳守。
週休1日は必ず確保のほか夏冬に各10日間の休暇があり、食費や寮費を負担。」
と宣伝した。
魅力的な労働条件に関東中から人が集まった。
しかし実態は「あぁ野麦峠」に近しいものだった。
周囲に鉄条網を張り巡らし、門はしっかりと施錠され、
見張りも厳しく、逃げ出そうとして捕まった者がいれば、
見せしめのために他の社員の前で公開のリンチや処刑を行っていた。
混迷を極める群馬は人口の1/4が減少し、もはや一般県民の安全を確保する事はほぼ不可能になった。
(↓群馬の過激派組織 グンマー国)
④難民の流入
内戦がすぐ終わると思っていた群馬県民は
当初は栃木や埼玉県北部に難民キャンプを作っていた。
一時は熊谷付近に数十万人規模の都市ともいえるキャンプが形成されていた。
しかし戦局は膠着状態で、かつグンマー国による虐殺も横行。
出口が全く見えない状態が続き、難民は疲弊していた。
そこに東京都知事が
「我々は群馬県民を歓迎する。仕事も住まいも提供する。」
と発言した事により、難民たちは一路都心を目指し始める。
平常時でもパンク気味の高崎線、宇都宮線、埼京線は制御不能に陥り、
東京の入り口、赤羽は難民で溢れかえった。
⑤テロ・暴行事件の発生
そうした中、東京、神奈川、千葉等でテロが大量に発生。
犯行は北関東人によるものであった。
それにより首都圏住民による北関東人への感情が急速に悪化。
首都圏各県で北関東民排斥運動が起こり始める。
(↓ 上京した北関東民に怒る東京都民たち)
⑥テロ・暴行事件の発生
終わりのない難民流入に首都圏同盟は折れ、新潟と渋々和睦。
危険分子としてフルボッコにされたグンマー国は急速に勢いをなくし、高崎派も前橋派の猛攻に敗れた。
群馬は前橋県庁側の勝利に終わり、高崎への弾圧は続く。
結局、紛争前に戻っただけ。
残されたのは荒廃した群馬の大地だけであった…。
(↓ 高崎駅前)
登場人物紹介
群馬=シリア
栃木=他の中東
埼玉=東ヨーロッパ
東京=ドイツ
神奈川、千葉=フランス、イギリス、ベルギー等
新潟=ロシア
茨城=ガチで存在を忘れた。多分アフリカ
※現実の群馬は良いところです。